部門横断プロジェクトにおけるインハウスデザイン思考:複雑なステークホルダー合意とデータ駆動型成果創出の実践
はじめに
今日の企業環境においては、市場の急速な変化に対応し、持続的な成長を実現するためには新規事業開発が不可欠です。しかし、特に大規模な組織においては、既存の事業部制やサイロ化された組織構造が部門間の連携を阻害し、新規アイデアが具現化に至る前に頓挫してしまうケースが少なくありません。ステークホルダー間の複雑な利害調整や、初期段階での合意形成の難しさは、多くのDX推進チームが直面する共通の課題と言えるでしょう。
本記事では、このような複雑な組織課題を抱える中で、インハウスデザイン思考を戦略的に活用し、部門横断型の新規事業開発プロジェクトを成功に導いた具体的な事例を紹介します。特に、多様なステークホルダーの巻き込み方、データに基づいた意思決定のプロセス、そして具体的な成果を創出し、組織変革に寄与したポイントに焦点を当てて解説します。この記事を通じて、読者の皆様が直面する課題解決の一助となり、自社のインハウスデザイン思考実践における具体的なヒントを見出すことができるでしょう。
事例の背景と組織課題
今回取り上げるのは、日本の大手製造業A社における事例です。A社は長年にわたり、特定分野のハードウェア製品で市場をリードしてきましたが、デジタル化の波を受けて、新たなソフトウェア・サービス領域への進出を模索していました。しかし、同社は歴史ある企業ゆえの強固な事業部制と、保守的でリスク回避傾向の強い企業文化に直面していました。
新規事業開発のアイデアは各部署から散発的に提起されるものの、部門間の調整、予算獲得、そして経営層の承認プロセスは極めて複雑であり、多くのプロジェクトが初期段階で停滞していました。特に、事業部門、開発部門、営業部門、そして経営層といった多岐にわたるステークホルダーが、それぞれの立場から異なる期待や懸念を抱いているため、共通のビジョンを形成し、合意を得ることが最大の障壁となっていました。デザイン思考推進チームは、この現状を打破し、自社発で新規事業を創出するための自律的な変革を促す役割を担うことになりました。
インハウスデザイン思考の具体的な実践プロセス
A社のデザイン思考推進チームは、上記の課題を深く理解した上で、インハウスデザイン思考の各フェーズを戦略的に適用しました。
1. 共感フェーズにおけるステークホルダー巻き込みとデータ活用
このフェーズでは、新規事業のターゲット顧客のニーズを深く理解すると同時に、社内ステークホルダーの抱える「懸念」や「期待」を早期に言語化することに注力しました。
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ステークホルダーの巻き込み方と社内合意形成の工夫:
- 初期段階で、企画、開発、営業、法務、経営層の代表者を招集し、複数回の「共感ワークショップ」を開催しました。
- ワークショップでは、単にターゲット顧客のペインポイントを共有するだけでなく、各部署が新規事業に対して持つ潜在的な抵抗や、求める成功の形を洗い出す対話の場を設けました。具体的には、カスタマージャーニーマップ作成時に、顧客視点と各部署の業務フローを重ね合わせ、どのようなギャップが存在するかを可視化しました。
- このプロセスを通じて、「我々が解決すべき課題は何か」という問いを部門の壁を越えて議論することで、当事者意識と共通の課題意識を醸成しました。
- 特に、価値提案キャンバス(Value Proposition Canvas)を用いたワークを通じて、事業が顧客に提供する価値と、社内の各部門がその価値創造にどう貢献できるかを明確にし、早期の共通認識形成を促進しました。
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データの収集・分析方法と活用:
- 顧客ニーズの深掘りには、既存の顧客データ(購買履歴、問い合わせログ)に加え、デザイン思考チームが主導したユーザーインタビュー(定性データ)とオンラインアンケート(定量データ)を組み合わせました。
- 既存のデータ分析専門チームと連携し、インタビューガイドの作成、データ収集プロセスの設計を行いました。収集したデータは、共感マップやアフィニティダイアグラムを用いてチーム全体でテーマ分析を行い、顧客の未充足ニーズやインサイトを抽出しました。
- 営業部門が持つ顧客との直接的な対話記録や、市場レポートも重要な一次情報として活用し、データが意思決定の根拠となるよう努めました。
2. 問題定義とアイデア創出フェーズ
共感フェーズで得られた洞察をもとに、解決すべき「真の課題」を明確化し、革新的なアイデアを創出しました。
- 問題定義: 「How Might We (HMW)」問いかけフレームワークを全ステークホルダー参加型で実施し、多角的な視点からの課題定義を促しました。この段階で、プロジェクトの成功を測る具体的なKPIの初期案を設定し、経営層を含む関係者間での合意形成に繋げました。
- アイデア創出: ブレインストーミングに加え、部門横断の混合チームによる「アイデアソン」形式を採用しました。各チームにはデザイン思考のファシリテーターが配置され、既存事業の制約にとらわれない「未来志向」のアイデア発想を奨励しました。
3. プロトタイピングとテストフェーズにおける効率化と反復サイクル
アイデアを具体化し、迅速に検証するために、効率的なプロトタイピングと継続的なフィードバックサイクルを重視しました。
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プロトタイピングの効率化と反復サイクルの回し方:
- MVP(Minimum Viable Product)の概念を徹底し、最小限の機能で価値を検証可能なプロトタイプを優先しました。
- FigmaやAdobe XDといったプロトタイピングツールを活用し、ワイヤーフレームからインタラクティブなモックアップまでを迅速に作成。これにより、開発リソースを本格投入する前に、アイデアの具体的な形を関係者に提示することが可能となりました。
- バックエンドの開発を伴わないフロントエンドのみのプロトタイプや、機能の価値仮説を検証するためのランディングページテストも積極的に採用し、限られたリソースで最大限のフィードバックを得る工夫を凝らしました。
- 開発部門とは初期段階から連携し、技術的実現可能性を随時検証。これにより、手戻りのリスクを最小化しました。
- 「週次フィードバックサイクル」を導入し、作成したプロトタイプをユーザー候補や社内ステークホルダーに提示し、短期間で意見を収集・反映するプロセスを確立しました。
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既存手法(アジャイル、DX推進など)との統合戦略:
- デザイン思考を「何を創るか(Why, What)」を定義する上流プロセスに位置づけ、そのアウトプットをアジャイル開発手法による「どう創るか(How)」の下流プロセスにスムーズに連携させました。
- デザイン思考で導き出されたHMW、プロトタイプ、ユーザーテスト結果は、アジャイル開発のバックログやスプリント計画に直接組み込まれました。デザイン思考リードは、この連携を円滑にするためのブリッジ役として機能しました。
- DX推進チームとは、共通の目標であるデジタル変革を推進するパートナーとして、ツールやナレッジの共有を密に行い、組織全体のデジタルケイパビリティ向上に貢献しました。
達成された成果と組織変革
インハウスデザイン思考の導入と実践により、A社は具体的かつ多岐にわたる成果を達成し、組織文化にもポジティブな変革をもたらしました。
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具体的なビジネスインパクト:
- 新規デジタルサービスの市場投入に成功し、ローンチ後1年で新たな収益源としての確立を達成しました。
- 初期ユーザーの顧客満足度調査では、平均4.2/5.0という高い評価を獲得しました。
- 部門横断的な連携と迅速なプロトタイピングにより、従来の類似プロジェクトと比較して開発期間を約30%短縮することに成功しました。これは、時間とリソースの効率化に大きく貢献しています。
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組織文化の変化:
- プロジェクトを通じて、事業部門、開発部門、営業部門間の連携が飛躍的に促進され、組織内のサイロ化が緩和されました。これにより、情報共有のスピードと質が向上しました。
- 従業員の新規事業開発に対する関心とエンゲージメントが向上し、社内から新たなアイデアや提案が積極的に挙がるようになりました。
- データに基づいた客観的な意思決定が社内で浸透し始め、感覚や経験則に頼るだけでなく、エビデンスに基づく議論が増加しました。
- デザイン思考が「一部の専門家が実践する特別な手法」ではなく、「事業を創り、課題を解決するための共通言語」として、全社的に認識され始め、社内トレーニングへの参加者も増加しました。
成功の要因と学び
この事例から、インハウスでデザイン思考を成功させるための普遍的な要因と、困難を乗り越えるための重要な教訓が明らかになりました。
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成功の要因:
- 経営層の強力なコミットメントと権限委譲: 経営層がデザイン思考の価値を理解し、推進チームに十分な権限とリソースを与えたことが、迅速な意思決定と実行を可能にしました。
- 初期段階からのステークホルダーの巻き込み: プロジェクトの初期段階から多様なステークホルダーを巻き込み、共通の課題意識とビジョンを形成したことが、後の合意形成を円滑にしました。
- 徹底したデータドリブンな意思決定: 定量・定性データを組み合わせた客観的な分析が、仮説検証の精度を高め、論理的な根拠に基づいた意思決定を可能にしました。
- 迅速なプロトタイピングと継続的なフィードバックサイクル: MVPの概念を徹底し、少ないリソースで素早くプロトタイプを作成・検証する文化が、手戻りを減らし、市場投入までの時間を短縮しました。
- 既存手法との柔軟な連携戦略: デザイン思考とアジャイル開発といった既存の業務プロセスとの連携を明確にしたことで、デザイン思考が組織全体にスムーズに統合されました。
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困難な局面と克服:
- プロジェクトの初期段階では、既存事業部の「なぜ今、新規事業を優先するのか」という抵抗や、「成功しないだろう」という懐疑的な意見に直面しました。特に、部門間の予算配分やリソースの奪い合いに対する懸念は根強いものがありました。
- これに対し、デザイン思考チームは、顧客の生の声を繰り返し共有するワークショップを開催し、市場の潜在的ニーズを客観的なデータ(ユーザーインタビューの映像、アンケート結果など)で提示することで、感情的な反発ではなく、事実に基づいた議論を促しました。
- また、小規模なプロトタイプで早期に「成功体験」を共有し、懐疑的なステークホルダーを巻き込むことに成功しました。例えば、仮説検証型ランディングページで市場からのポジティブな反応(登録数など)を示すことで、「このアイデアには可能性がある」という共通認識を醸成しました。これにより、徐々に抵抗感を薄れさせ、協力的な姿勢を引き出すことができました。
まとめ
A社の事例は、インハウスデザイン思考が、複雑な組織構造や多様なステークホルダーが介在する環境下においても、具体的なビジネス成果と組織文化の変革をもたらしうる強力なフレームワークであることを示しています。特に、初期段階からのステークホルダーの深い共感を促し、データに基づいて仮説を検証し、迅速に実行するインハウスデザイン思考の強みが、この成功の鍵であったと言えるでしょう。
読者の皆様の組織においても、本事例で紹介したステークホルダーの巻き込み方、データ収集・分析の方法、プロトタイピングの効率化、そして既存手法との統合戦略は、実践的なヒントとなるはずです。自社の組織特性を理解し、これらの知見を応用することで、インハウスデザイン思考を自律的な変革の原動力とし、持続的な成長を実現する一歩を踏み出すことができるでしょう。