レガシーシステム環境下でのインハウスデザイン思考:高速プロトタイピングとデータに基づく反復検証による組織変革
はじめに
多くの企業がデジタル変革(DX)を推進する中で、長年運用されてきたレガシーシステムはしばしば変革の足かせとなります。しかし、このような環境下においても、インハウスデザイン思考は組織に内在する課題を克服し、具体的な成果を生み出す強力な手法となり得ます。本記事では、レガシーシステムを基盤とする環境下で、いかにインハウスデザイン思考を活用し、高速プロトタイピングとデータに基づく反復検証を通じて組織変革を実現したかの具体的な事例を紹介します。読者の皆様が直面しているであろう、既存の制約下での推進力の確保、成果の可視化、社内への定着といった課題に対する実践的な示唆を提供できれば幸いです。
事例の背景と組織課題
今回紹介する企業は、金融サービス業界における中堅企業です。数十年にわたり基幹システムとして機能してきたレガシーシステムは、安定稼働を維持する一方で、複雑なコード構造と部門ごとのサイロ化されたデータ管理により、新規サービス開発や既存機能の改善に多大な時間とコストを要していました。顧客ニーズの多様化と競合他社のデジタルサービス展開に直面し、企業は「DX推進」を掲げたものの、具体的にどこから着手すべきか、どのようにレガシーシステムの制約を乗り越えるべきかという課題を抱えていました。特に、新たなアイデアを形にするまでのリードタイムが長く、市場の変化に迅速に対応できない点が、組織全体の停滞感を生み出していました。
インハウスデザイン思考の具体的な実践プロセス
この課題に対し、社内DX推進チームはインハウスデザイン思考を導入しました。外部の専門家に依存せず、自社のリソースと知識を活用して変革を主導する方針を掲げ、以下のプロセスで実践しました。
1. 共感と問題定義:レガシーシステムの制約とユーザーニーズの統合
デザイン思考の初期フェーズでは、まず既存システムの利用者である顧客と、システムを運用・開発する社内部門の両方に対する深い共感を重視しました。
- UXリサーチの深化: 顧客へのデプスインタビュー、行動観察、アンケート調査を通じて、既存サービスの利用におけるペインポイントや潜在的なニーズを詳細に洗い出しました。また、社内ヘルプデスクに寄せられる問い合わせデータや、ウェブサイトのアクセスログなどの定量データも分析し、課題の優先順位付けを行いました。
- レガシーシステム解析と制約の明確化: システム開発部門のエンジニアと密接に連携し、レガシーシステムのアーキテクチャ、既存APIの有無、データ構造、改修に要する工数などを詳細にヒアリングしました。これにより、技術的な実現可能性とビジネス上のニーズのギャップを明確にし、どこまでが「レガシーシステムを活用しつつ改善可能か」、どこからが「抜本的な改革が必要か」の境界線を定めました。
- 問題定義の具体化: 収集した定性・定量データと技術的制約の情報を統合し、「顧客が〇〇の操作で感じるフラストレーションを、レガシーシステムの〇〇の制約下で、いかに最小限の改修で解消するか」といった具体的な問題定義を行いました。
2. アイデア創出:制約を逆手に取る発想
制約が多いレガシーシステム環境下でのアイデア創出では、「不可能」を前提とせず、「どうすれば可能か」に焦点を当てました。
- クロスファンクショナルなワークショップ: 事業部門、開発部門、法務部門など、多様なバックグラウンドを持つメンバーを集め、ユーザー視点と技術的視点の両方からアイデア出しを行いました。特に、レガシーシステムの既存機能を最大限に活用しつつ、新しいユーザー体験を創出する視点が重視されました。
- 「ハック」的アプローチ: 大規模なシステム改修ではなく、既存のAPIを組み合わせる、フロントエンドのみを刷新する、部分的にマイクロサービスを導入するといった「ハック」的なアプローチも積極的に検討し、実現可能な範囲でのイノベーションを追求しました。
3. プロトタイピングの効率化と反復サイクルの回し方
限られたリソースとレガシーシステムという制約の中で、いかに高速でプロトタイプを作成し、フィードバックを得るかが重要でした。
- 最小限のプロトタイプ作成:
- UI/UXモックアップ: FigmaやAdobe XDなどのツールを用いて、既存システムのコア機能はそのままに、ユーザーインターフェースを刷新するインタラクティブなモックアップを迅速に作成しました。これにより、具体的な操作感を早期に検証しました。
- 部分的な機能プロトタイプ: 既存システムとの連携をシミュレーションするため、主要なデータ連携部分のみを簡易的なAPIゲートウェイやスプレッドシートで代替する「Wizard of Oz」手法や、Miroなどのホワイトボードツールでフローを視覚化する手法も活用しました。
- 週次でのユーザーテストとフィードバックループ: 作成したプロトタイプは、社内外の協力者を募り、週次でユーザーテストを実施しました。テストでは、タスク完了率、操作ミス率といった定量データに加え、ユーザーの発話や表情から得られる定性的なフィードバックを重視しました。
- フィードバックはすぐにDX推進チーム内で共有され、翌週のプロトタイプ改修計画に反映されました。この迅速な反復サイクルにより、開発の初期段階で多数の仮説検証と改善が可能となりました。
- 既存手法(アジャイル開発)との統合戦略:
- デザイン思考フェーズでユーザー価値が検証され、コンセプトが固まったプロトタイプは、アジャイル開発チームへと引き渡されました。アジャイルチームは、デザイン思考で得られたユーザーインサイトとプロトタイプを基に、より具体的な開発要件へと落とし込み、スプリントベースで機能開発を進めました。
- この連携により、デザイン思考で「何を開発すべきか」を明確にし、アジャイルで「いかに効率的に開発するか」を実現するシームレスなフローを構築しました。
4. データの収集・分析方法と活用
意思決定の客観性を高めるため、プロトタイピングの各段階で多角的なデータ収集と分析を行いました。
- 定性データの深掘り: ユーザーテスト時の発話記録、行動観察メモ、インタビューログを分析し、ユーザーの「なぜ」を深く理解しました。
- 定量データの活用: プロトタイプに対するA/Bテストを実施し、クリック率、コンバージョン率、滞在時間などの客観的指標を比較しました。また、社内ツールを通じてユーザーからのフィードバックをリアルタイムで収集し、傾向分析に活用しました。
- データに基づく意思決定: 収集した定性・定量データは、週次の進捗会議で可視化され、次のプロトタイプの方向性や機能の優先順位付けの根拠とされました。これにより、主観や政治的な判断ではなく、客観的なデータに基づいた合意形成が促進されました。
5. ステークホルダーの巻き込み方と社内合意形成の工夫
レガシーシステムが関係する性質上、多岐にわたる部門のステークホルダーの巻き込みは不可欠でした。
- プロトタイプを用いた具体的な対話: 抽象的な資料や議論ではなく、実際に触れることのできるプロトタイプを提示することで、事業部門、IT部門、経営層を含む全てのステークホルダーが共通の認識を持つことを促しました。これにより、「ユーザーは本当にこれを使うのか」「技術的に実現可能か」といった具体的な議論が可能となり、早期に合意形成を図ることができました。
- 段階的な情報共有と成功体験の積み重ね: 初期段階では小規模な関係者グループでプロトタイプテストを実施し、その成功体験を定期的な報告会で共有しました。これにより、プロジェクトへの信頼感を段階的に醸成し、徐々に巻き込むステークホルダーの範囲を広げていきました。
達成された成果と組織変革
インハウスデザイン思考の導入により、この企業は以下のような具体的な成果と組織変革を達成しました。
- 顧客満足度の向上とビジネスインパクト: 特定のサービス機能に対する顧客満足度が、導入前の60%から90%へと大幅に向上しました。これにより、関連する新規顧客獲得数が前年比で20%増加し、問い合わせ件数が15%削減されるなど、具体的なビジネスインパクトにつながりました。
- 開発リードタイムの短縮: プロトタイピングとデータ検証のサイクルを導入した結果、新規機能の企画から市場投入までのリードタイムが、従来の平均8ヶ月から平均3ヶ月へと大幅に短縮されました。
- 組織文化の変化:
- データドリブンな意思決定の浸透: 部門横断でのデータ共有と分析が日常化し、仮説検証に基づいた客観的な意思決定が組織全体に浸透しました。
- コラボレーションの強化: デザイン思考のプロセスを通じて、事業、開発、企画など異なる部門間の壁が低減され、相互理解と協力関係が深まりました。
- 挑戦的なマインドの醸成: 小さく始めて失敗から学ぶというアプローチが成功体験として共有され、従業員が新しいアイデアを提案し、試すことへの抵抗感が減少しました。
デザイン思考は、もはや特定のプロジェクト手法に留まらず、新しいプロダクト開発や業務改善における標準的なアプローチとして定着し、持続的な組織変革の原動力となりました。
成功の要因と学び
この成功事例から得られる主要な要因と学びは以下の通りです。
- 制約を前提とした現実的なアプローチ: レガシーシステムの存在という制約を「乗り越えるべき障壁」と捉えるだけでなく、「現在の資産」として捉え直し、その上で可能な限りのイノベーションを追求したことが成功の鍵でした。大規模なリプレイスを待つのではなく、既存環境下で「できること」から始める現実的な戦略が、早期の成果につながりました。
- 「小さく始めて早く学ぶ」文化の徹底: 高速プロトタイピングとデータに基づく反復検証を通じて、失敗を恐れずに多様なアイデアを試行し、早期に学習する文化が確立されました。これにより、大規模な投資を行う前にユーザー価値を検証し、リスクを最小限に抑えることが可能となりました。
- プロトタイプとデータによる説得力: 抽象的な議論ではなく、実際に触れて体験できるプロトタイプと、客観的なデータを示すことで、異なる部門や階層のステークホルダー間の認識齟齬を解消し、強力な推進力を生み出しました。
- 困難の克服: プロジェクトの初期には、レガシーシステムの技術的負債に対する理解不足や、既存の業務フローへの固執といった抵抗に直面しました。しかし、DX推進チームは、継続的なワークショップを通じて技術的制約を共有し、プロトタイプによる具体的な成功体験を早期に創出し、データという客観的な根拠をもって関係者を説得することで、これらの障壁を段階的に乗り越えました。
まとめ
レガシーシステム環境下におけるインハウスデザイン思考は、単なる表面的な改善に留まらず、組織文化そのものに変革をもたらす可能性を秘めています。本事例が示すように、制約の多い環境においても、ユーザー中心の視点を持ち、高速プロトタイピングとデータに基づく反復検証を徹底することで、具体的なビジネス成果と持続可能な組織変革を実現できます。これは、外部コンサルティングに依存しない、自律的な変革を志向する組織にとって、極めて有効なアプローチであると言えるでしょう。読者の皆様が自身の組織でインハウスデザイン思考を実践する上で、本記事が新たな一歩を踏み出すきっかけや、既存の課題を解決するヒントとなれば幸いです。